2011年、香港。<坪洲島へ行こう 3>

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(参考に、地図をご覧になりたいかたは<坪洲島へ行こう。1>の坪洲島中心部の絵地図をご覧くだ
さい。クリックすれば拡大します。)


広場のように見えたところは、一応「露坪街」という名前がついていました。おばあちゃんたちが集
う大きな木の反対側には、こ〜んな洗濯物がユラユラ風にゆれていました。作業着かなにかでしょう
か、青の濃淡が妙にきれいに見えたりして。

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露坪街をまっすぐ進むと、つきあたりに...といっても、すぐに突き当たってしまうのですが...天后
廟(ティンハウミウ)があります。

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この天后廟は、乾隆帝により1752年に創建されたものだとか。(内部は撮影禁止)その後この廟は
光緒帝の時代、1877年と1896年に2回修築されました。今ある建物が、どれほど古いかは、資料不
足でわかりません。

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天后廟のすぐ脇には、石碑「奉禁封船碑」があります。一見地味ながら、非常に貴重な文化財なのだ
そうです。何が刻まれているか...を知りたいかたは、右にある説明を「広東語」の漢字をひろいつつ
「英語」も読むと解説の意味がおわかりになるかと...。
(↓以下、中国語サイトの文字を拾い読みして調べた内容です。間違いもあるかもしれません。)
奉禁封船碑:清朝道光年間。この辺りを治めていた封建官吏は、坪洲の漁民から無理矢理その漁船を
徴用、海賊討伐に利用していました。付近ではかねてから海賊が横行し、人々を震え上がらせていた
のです。それで漁船を商船に見えるようにカモフラージュし、おとりに使っていたのだとか。しか
し、もとより貧しい漁民にとって、生計の元となる船を取り上げられてはたまったものではありませ
ん。ますます困窮を極めることになってしまいました。(「封船」というのは漁船を徴用することだ
そうです。)
そこで、黄勝興はじめとする12人の漁民で封建官吏に訴え出て、ついに県知事から漁船の徴用の禁
止が認められました。それでも、漁民の不信感は強く、紙が久しく保存することができないというの
で、石碑に告示を刻んだ...とのことです。


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by kadoorie-ave | 2011-07-03 15:32 | 散歩と旅・建物 | Comments(2)
Commented by マツモト at 2011-07-04 19:38 x
二枚目の画像の手押し車、男木島のオンバを思い出しました。
やっぱりどの国の島にも必要なのね。
Commented by kadoorie-ave at 2011-07-05 01:05
>マツモトさま
そうなんです〜。私もオンバを思い出しました。島全体の雰囲気もどこか似ていて。自転車に荷台を連結しているのも、瀬戸内の島々にありましたね。
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